【三屋清左衛門残日録】(仕事場D・A・N通信vol.30)
「若い間は功名心もはげしく、まだ先があると思うから、多少の優劣などということでは決着がついたと思わぬものだが、年取るとそうはいかぬ。優劣はもはや動かしがたいものとなり、おのがことだけではなく、ひとの姿もよく見えて来るのだ」(藤沢周平著「三屋清左衛門残日録・零落」)
これが自分の中の何かを刺激して、引っかかっているのだろう。たいていのものは読む尻から忘れてしまう昨今なのに、いつまでも頭に留まっている。Kindleでの読書だから、ページを振り返って探す作業は面倒くさい。にもかかわらず、おぼろげな記憶をたどるとこの一文にすぐにたどり着いた。
歳をとるとは、自分が関係する世界でいろいろなことに決着がついたことを思い知ることだ。そしてそれ故に、昔なら相手のためだと提案のつもりで忠告や意見出来ていたことが、言いよどむようになり、やがて言えなくなることでもある。
この背景に、己の現在に対する強い肯定感があることは否定しない。誰もが歳を重ねた人生の終末を、そう思えて暮らしているのなら、人はそれぞれに幸せだと語ってしまえばよい。しかし現実がそんなものではないことぐらい知っている。
その一方で、どのように生きれば幸福だと言えるのかを誰かに決められたり、解説されたりする不快感のことも分かる。自信満々な疑うことを知らぬ感性で、他愛もない自己肯定の説教話をされたところで、聞く耳など持てない気分になるのは当然だ。
年寄り同士とはお互い、新しい物事は見えにくくなり、他人の話は聞けなくなるもののようだ。耳は遠くなってゆくし、眼も悪くなっていくのだから当然のことか。
私の場合、仕事の巡り合わせで今も、ヒトの人生や家族に口を挟む機会が少なくない。他人のことをあれこれ聞くことも多い。だからこそ、今の自分の有り様を忘れてはならないぞと自戒しつつ暮らしている。
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