【断捨離?】(仕事場D・A・N通信vol.34)

 十年前には聞いたこともなかった言葉が、皆の口にのぼる。人はそれぞれだから、へぇーと思ってやり過ごす。私はどうかと問われたら、いつのことか分からない死のために、時間を費やすのは無駄だと思っていると答える。

 長寿社会化していることは皆承知だ。たいていの人は喜んでいる。昔の人のように七十歳そこそこで死にたいなんて言う人に会わない。それなのに早々と人生の後片付けのことを口にする。

 「いつ、なんどき、何があるか分からない」などと、賢明そうに言うが、そんなことは当たり前だ。「だから早死にしたいのか、死にたくないのか、どっちだ!」と言いたい。

 長生きを楽しむ気なら無駄なものも含めて、自分の周囲のモノ達は、人生のおもちゃだろう。主が亡くなってしまえば、残された者には役に立たないゴミの山かもしれないが、ホントに遺族はそんなことを思うのだろうか?

 私の両親は先ず父が亡くなって、数年して母が亡くなった。母は片付けものが得意な人だった。最近、思い出したことがあって父のアルバムを探した。新しい物好きだった父は青年期、リフトなどない時代に野沢温泉スキー場に毎年出かけていたらしい。スキー板を担いで、歩いて山頂に登って滑降する。その滑り一本でお昼になったと話していた。スキー黎明期のあの写真は……と思って探し始めた。

 しかしその類のアルバムも写真もなかった。同時に母が京都で同志社高女部に通っていた娘時代のそれもなかった。おそらく断捨離したのだろう。

 親の昔のアルバムなど、子どもである私には興味なかろうと思ったのかもしれない。しかし今、そのなくなってしまったアルバムが見たくてしかたがない。昔見た父の青年時代の写真、母の思春期の写真が懐かしくて仕方がない。

 断捨離などと言って、いろいろ思い出のあるものを選んで捨てるのはきっと大変だろう。でも子ども世代が、そうでもないものを廃棄するのなんて、業者に頼めば一日で済んでしまう。捨てるなんて簡単にできることを、なぜそんな言葉で、高齢者の終末スケジュールに入れさせたがるのか、まったく理解できない。

士郎さん.com

家族心理臨床家で漫画家でもある団士郎さんに関する情報をまとめたオフィシャルページ。本ページは、本人の了承を得てアソブロック株式会社が運営しています。

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