【二人の先生】(仕事場D・A・N通信vol.18)

 卒業論文用の実験素材として、16ミリフィルムでアニメを製作することになった。本格的な映像制作になるので、先生方からTVカメラマン(先輩卒業生)を紹介された。そして御挨拶に関西テレビまでお二人一緒に出向いて下さった。

 アメリカの心理学者の論文の追試実験で、準備物には厳密さが要求されていた。結果的に、この素材を使って後にも何人もが論文を書いたような、キチンとした素材が仕上がった。

 卒業が近くなっているのに就職が決まっていない中、「大学院に来なさい」と濱先生から言われた。自分が大学院に行くイメージが全くなかったので、外国語が苦手だし、そんな気持ちはないと断った。

 卒業後、ふらふらしていたら松山先生に呼び出された。そしていくつか面接に行くよう指示されたが、上手くいかないのが二つ続いた。その後、「児童相談所の心理判定員に欠員があるので、履歴書をもって府庁に行きなさい」と言われた。そして公務員試験を受けることもなく京都府職員になった。

 それから三十年。宝ヶ池プリンスホテルで、濱先生の喜寿のお祝いが催され、出かけた。同窓会のつもりで出席したが、同年度卒業者は教員として残ったS君ひとり。他には誰もいなかった。結果、退屈な立食の二時間になりかけていた。

 八十一歳になっても元気で出席しておられた松山先生の姿が遠目に見えた。すると、諸先輩や後輩達が次々と話しかけていた先生が近づいてきて、私の初単著『ヒトクセある心理臨床家の作り方』を読んだと話し、「本の中で誉めてくれてありがとう」とおっしゃった。そして、「立派な臨床心理学者になられて、立命館はあなたを採ったりする勢いがある。同志社は駄目ですネ…」とおっしゃった。 

 そんなに思い上がってはいない。でも、一貫して応援して下さってきたことと、結果的に五十歳を過ぎて、この分野で大学院の教員になっていることが関係ないとは思えなかった。

 若い頃、自分のことは自分では分からない。見つめている自分が若いからだ。あの頃、五十歳くらいだった先生が、私をどのように見ておられて、声をかけ続けて下さったのか。有り難くも不思議な気がする。

士郎さん.com

家族心理臨床家で漫画家でもある団士郎さんに関する情報をまとめたオフィシャルページ。本ページは、本人の了承を得てアソブロック株式会社が運営しています。

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