【死】(仕事場D・A・N通信vol.48)
「死」について深く考えたことなどなかった。一年前、配偶者の死に直面した時も、その後も、あまり考えたとは言えない。ずっと若い頃、思春期に「死」を考えたことのない人は文学性が足りないのだと聞かされた。そうなのか・・・と思ったが、だからといって考えることはなかった。
四十代、五十代の働き盛りにも、死について考えたことはなかった。自分の中では考えても仕方のないこと、いや考える必要のない事になっていた。生まれたものは必ず死ぬし、人はまぁ長くて百年、それ以上は少ないが、それ未満はよくあるという認識だ。
人間のみならず、生物の世界は毎日死で溢れている。高齢化社会も我が事としながら、いくつまで生きられるかとか、生きたいとか、あまり考えたこともなかった。それは「死」を自分の意思が関わる事ではないとずっと思ってきたからだ。
私は自死、自殺に対して冷淡なところがある。意思で生まれることは出来ないのに、死ぬことは出来ると考える人が好きではない。ひっそり消えてしまうのではなく、「死ぬ、死ぬ!」と叫んで周囲を巻き込むような行動選択が好きになれないのだ。
近年、話題になる尊厳死は死の話ではなく、死に方の話なのだと思う。医療技術の成果として生き延びることを強いられるのもうっとうしい話だ。死なないようにしてくれなどと頼んでいるわけではないのだから、嫌だという意思くらいは尊重して貰いたい。人生の最終盤に、延命措置で生かされるのは迷惑だ。人間は死ななくはなれないことを受け入れているのに、それを技術で少し伸ばすことが誰の喜びなのか分からない。
妻は「最後に苦しいのは嫌だから・・・」と何度か私に言っていた。だから主治医にそのような対応をお願いした。そしてそうなった時、私の中には微塵ほどの心残りもなかった。「あなたの願ったように、私はしただろう?」とあの世にいったら聞いてみたい。
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