【ヨ】欲望という名の電車(私的埋蔵文化財)

 京都労演で芝居を見始めて、「欲望という名の電車」のことが耳目に触れるようになった。それまでもマーロン・ブランドの映画のタイトルとして知ってはいたはずだが、そんなに関心は向かなかった。新劇を見るようになって、なんだかちょくちょく登場したのだった。「セールスマンの死」とか「熱いトタン屋根の猫」とか、とにかくそういうカテゴリーの文化らしかった。

 文学座の杉村春子がブランチ(女主人公)を演じ続けていると聞いて、何歳なの?と思ったが、森光子の「女の一生」だって相当なもんだから、クローズアップのない舞台とはそういう空間なのだと思った。

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 あまり話したことはないのだが、演劇、舞台へのあこがれは相当昔からあった。小学校時代の後半は学校演劇への関心はけっこうなものだった。引き金は低学年から続く学芸会での配役。でも贔屓になってはいけない学校の配役。演劇好きの先生は、面白がって変則の二役登場などさせてくれた。

 6年生の時、大津市立長等小学校の放課後クラブ活動が突然必須になった。にもかかわらず入江先生が顧問をする演劇部は、園芸部と勘違いした児童もあって、人が集まらなかった。先生は公演できるだけの人数がないから、紙芝居を作ろうと言い始め、紙芝居クラブになってしまった。漫画を描くのも嫌いではなかったから、気が付いたら楽しめた。

 そして中1での転校で、あこがれていた舞台への夢は霧散した。その後も、舞台へのあこがれはあったが、気恥ずかしさが勝ってきており、高校の演劇部には向かなかった。大学にいくつかある演劇サークルは、公演は見たりしていたが、入部に足を向けることはなかった。

 高校で漫画研究会創設に向かってしまったことで、大学では慣れ親しんだ漫画研究会に所属することになった。もしあの時、思い切って学生演劇の世界に入っていたら、売れたとは思わないが、芝居の世界を経験していただろう。その後も、つかこうへい劇団の芝居など、関西公演は追いかけて観ていた。

 当時、京都労演の例会に出かけると、劇場前にはチラシやビラを配っている人がいた。パンフレットに挟まっていたのがこの1979年のチラシ。今となってはフィクションとしか思えないが、当時はこんな主張も、過激派学生運動も、社会の一員として世の中が容認していた。

 70年代前半には、烏丸今出川(同志社前)の交差点に、火炎瓶が何本も投げられて炎を上げた。市電はストップしてしまい、機動隊の発射した催涙弾の煙があたりに流れているなんて、映画のロケかと思うような景色があった。

 あれはあれで元気のあった時代だったと言えるだろうなどと、思い出す私たち世代。今の人たちなら、「迷惑行為!犯罪でしょう!」で終わりだな。

士郎さん.com

家族心理臨床家で漫画家でもある団士郎さんに関する情報をまとめたオフィシャルページ。本ページは、本人の了承を得てアソブロック株式会社が運営しています。

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