【フ-6】フラッシュダンス(私的埋蔵文化財)
「フラッシュダンス」といえば聴こえてくる音楽がある。1983年は町中でこのメロディが流れていて、誰もが自分の中に、踊りたがっている自分を感じていた。
しかし、あちこちに若者のダンスがあふれている今の人たちに、あの頃の日本人の標準を思い出すのは難しいだろう。当時は、今も同じだが、社交ダンスをたしなむ人は極端に少ない国だった。フォークダンスが学校教育の定番で「オクラホマミキサー」がみんなが踊れる唯一のものだった。民謡や盆踊りだって寂れる一方で、子どもの生活にダンスは縁が遠くなり始めていた。
「カラオケ」がネーミングもそのまま世界の標準装備になる以前、日本人が人前で歌うのは業務の人だけだった。それ以外の唯一のものがNHKラジオの「素人のど自慢」で、そこだけには文字通りのど自慢の人々が集っていた。
歌手、民謡の歌い手などの他に、「歌声喫茶」などというものが出現し、ロシア民謡をリーダーに従って喫茶店の中で客が合唱し始めるような時代だった。つまり平均的日本人は歌わないし踊らない、それが常識だった。
しかし、ならばそういうことが苦手とか、嫌いだったのかというと、今になって思うと疑問だ。カラオケの世界的伝搬を目にして、日本人がこんなに歌うのが好きだったとは……と評論する人はたくさんいた。上手、一流でなければ人に聞かせてはならないという枷をカラオケは外した。
それでも、世代的なこともあるのかもしれないが、踊ることはゴーゴー倶楽部やディスコが現れたバブル当時でも、若い世代の、ごく一部の文化であるところから動かなかった。
大きな変化は、やはり学校カリキュラムとしてダンスが加わったことだろう。しばらくして気が付くと、AKBの曲をみんながネット上で踊っていたり、高校生ダンス選手権のようなプログラムが世の中にあふれた。結婚式の余興に、級友たちがダンスを披露するようになるのもこの後のことだ。潜在化していた歌いたい、踊りたい欲望が解放されていったのがこの時代だ。
まだ誰も踊りださない時代、多くの日本人があこがれをもってスクリーンを見つめた映画が「フラッシュダンス」。可愛らしいダンサー、ジェニファー・ビールスのようには誰も踊れなかったが、心の中の踊りたさは、あのように軽やかに舞っていた時代だった(もっとも、あの映画のダンスは吹き替えだというのが常識らしいが)。
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